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道統少林寺流空手道 錬心舘は開祖 保勇(たもつ いさむ)十段範士(勲四等瑞宝章)により昭和30年鹿児島市を拠点に誕生。
卓越した技術とその高い精神性は燎原の火のごとく全国に普及し50年、全国各地におよそ1200支部、約32万人の門下生を誇っています。
中華民国6支部、アメリカ30支部、フィリピン3支部、インド15支部、プエルトリコ10支部、フィンランド8支部、スウェーデン、ドミニカ、ロシア、メキシコ、ブラジル、パナマなど、日本のみならず様々な国で広がり続けています。
平成12年5月、開祖 保勇十段範士の逝去に伴い、保巌(たもつ いわお)十段範士が錬心舘総本山第二代宗家を襲名しました。
開祖保勇師の三男として創流まもない昭和32年、鹿児島市に生まれ、錬心舘の発展とともに成長された。
開祖、そして二代目宗家の下で直流の習得に励み、中央支部・西陵支部・南姶良地区本部を拠点に指導実績を積み重ね、多くの優秀選手を輩出、総本山のお膝元鹿児島県連盟の要として活躍してきた。
全国大会で長年演じてきた「少林金剛杖術」は、役行者(えんのぎょうじゃ)の山伏修法を武術化したもので、火花散るその迫真の演武は、大会の華として各界から高く評価された。
晩年の開祖とよく似た、悠揚迫らぬ風格の持ち主で、温和にして重厚なその人となりは、一門の新たな総帥として今後衆望を高めていくことであろう。
長男の勇太郎氏は型の名手として知られ、優勝経験豊富な現役の強豪。錬心舘の誇る父子鷹である。
平成二十九年二月十九日、総本山武学舎に於いて推戴式が行われ錬心舘一門を代表して(社)全日本少林寺流空手道連盟 正木
英雄会長より、道統少林寺流第三代宗家の推戴と併せて十段範士号が授与された。
初代、二代を師匠として仰ぎ、先師の業績を讃え連綿と続く道統少林寺流の系譜を受け継ぐ者としての覚悟で少林寺流空手道錬心舘と共に邁進を続ける。
宗家保巖十段範士は、開祖(故)保勇十段範士の長男として昭和二十三年鹿児島市において誕生。
平成十二年後月少林寺流空手道錬心舘宗家を襲名。
師であり、父である開祖の薫陶の下、厳しい修行を重ね、型・組手の最高技術を極める。
全国大会における特別演武少林寺流正流七法の最高峰公相君の型は壮絶豪放の中に華麗さを備え完成された型と評される。
また、組手技術は防ぐことのできない空手道の最終技術して空手界の畏怖の的となった「後ろ廻し蹴り」「連続廻し蹴り」「二段廻転足刀蹴り」「足刀くの字とび」「螺旋手刀打ち」「逆風足刀蹴り」などあらゆる技術に精通している。
昭和四十二年、第一回全国選手権大会において、圧倒的な強さで優勝を飾り、以来指導者として普及活動を開始。昭和四十年若干十九歳フィリピンに渡り、バギオ商工科大学で指導。
昭和四十年には台湾派遣団の団長として台北市に於いて指導、昭和五十六年にはドミニカ共和国を拠点に中米各地で指導、現在活動する台湾、ドミニカ共和国、プエルトリコ、パナマなど海外支部の基礎を創る。
近年は欧州、インド、北米各地で指導に当たり高い組手技術と深い精神性を有する代表的な日本武道として、年々、愛好者の数を増やし、空手道の国際化を推進している。
特にインドには宗家自ら幾度となく訪問し「イワオ?・タモツ国際基金」を創設し、インドの恵まれない子供たちの教育支援を始め、国際交流や福祉活動も積極的に展開している。
「空手道の真髄は型にあり」。合理性に立脚した華麗でスピード感溢れる型の普及を通じて心技体に充実した健全な青少年の育成に大きく貢献した。
今、一門の先頭に立ち、卓越したその指導力で連盟発展のための近代化と国際化に尽力している一門の総帥である。
勇壮且つ果敢で機知に富み、至情溢れる完成で社会平和に貢献し得る真の空手道の創造を目指す。錬心舘空手道の格調高い精神性を原点に青少年に夢と希望を与える二十一世紀の武道家として門内外の敬愛を広く集めている。
少林寺流空手道開祖・錬心舘創始宗家 保 勇 十段範士は、大正8年(1919年)9月29日鹿児島県奄美市(旧名瀬市根瀬部)に生まれる。
少年時代隣家に住む沖縄糸満の漁師より空手術の手ほどきを受ける。
17歳のとき台湾に渡り、台中市武徳殿において中原忠男門で柔道を学ぶかたわら、陳慶宗老師より中国南派拳法を修得。
昭和13年9月、台湾総督府警察官練習所卒業。少年警察官として台湾で勤務。後、兵役に服し、第36連隊工兵隊に所属してハイラル、吉林、牡丹江省等を転戦、除隊。
昭和19年4月、鹿児島県警察官として特別高等警察外事課に勤務、戦時下の人心の安定に努める。
戦後、人心の荒廃を憂い、武道による人造りを発願。沖縄に渡る。空手道各派を見聞し定めたのは、少年時代、「身の丈低いお前には、柔道で身を立てるのは無理だ」と否定された経験から「小柄で達人と呼ばれる人物こそ本物だ」との信念により、名人
喜屋武朝徳先生を訪ねる。しかし喜屋武朝徳先生はすでに他界したあとだった。
やむなく直弟子たちを訪ね、喜屋武朝徳直流を修得。正流七法の型を集大成する。
空手道の他にも 保 勇 十段範士の武暦は広く、講道館柔道3段、方円流体術、兼相流柔術、八光流柔術、棒術、杖術、釵術、剣術など、数多くの体術・武器術を習得。
これら半生にわたって体得した諸武術を総合整理。さらに自ら編み出した幾多の組手技を付加して、昭和30年11月8日、少林寺流空手道研究会・錬心舘道場を開設。
昭和34年3月 | 旧全日本空手道連盟理事、西日本地区副本部長兼技術部長、沖縄に全日本空手道連盟・沖縄地区特別本部を結成するにあたり産婆の労をとる。 |
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昭和35年1月 | 沖縄地区特別本部結成の功労により旧全日本空手道連盟中央本部より表彰をうける。 |
昭和35年3月 | 鹿児島県空手道連合会結成、会長就任。 |
昭和35年11月 | 少林寺流空手道研究会を全日本少林寺流空手道連盟へ組織変更、会長に就任。 |
昭和37年7月 | 鹿児島県空手道連合会を発展解消し、鹿児島県空手道連盟を結成、会長に就任。 |
昭和38年10月 | 旧全日本空手道連盟の内部分裂を機に西日本各派をまとめ西日本空手道連盟を結成、会長に就任。 |
昭和39年9月 | 全国空手界に先がけ鹿児島県空手道連盟を県体育協会へ加盟せしむる。 |
昭和39年12月 | 鹿児島県伊集院町に拳士ヶ丘を開山し拳士の塔を建立。 |
昭和40年12月 | 武道家として戦後初めて中国を訪問、中国武術各派と交流を図る。 |
昭和41年4月 | 全日本武道連盟より空手道8段範士号を授与。 |
昭和42年8月 | 鹿児島市体育協会より表彰。翌43年9月、鹿児島県体育協会より表彰される。 |
昭和49年10月 | 全国師範会議の推挙により少林寺流空手道10段範士号を授与。 |
昭和56年9月 | 鹿児島県体育協会より体育功労者として表彰される。 |
昭和63年10月 | 「錬心舘」に文部大臣より社会体育優良団体賞が贈られる。 |
平成6年10月 | 文部大臣より体育功労賞の個人表彰をうける。 |
平成7年10月 | 天皇の招きにより秋の園遊会に出席。 |
平成8年10月 | 第29回MBC賞表彰。 |
平成11年11月 | 21世紀にむけ、殿堂「武学舎」落成。 |
平成12年4月 | 勲四等瑞宝賞を受賞。 |
平成12年5月 | (西暦2000年)5月31日生涯を閉じる、享年80歳。 |
錬心舘では、早くから「空手道を通した人づくり」に心血を注いできました。空手道を人間形成の武道と位置付け、「百年先を憂えては、人を育てる」という指導理念の下、約60年に渡り活動してまいりました。
普段の指導方針も単に、武術の修得にとどまらず、人格の陶治、精神力の充実強化、道徳心の涵養に努め、心身共に健全な青少年の育成のための真の空手道の創造を目指して活動しています。
昨今では、マスメディアなどの影響で、相手が血を流したり、失神、悶絶する過激な試合が、ハイレベルな試合と思われがちです。
しかし、このような試合方式では、怪我やその後遺症によって、生活に支障をきたす恐れがあり、特に、成長期にある小中学生などの子供たちでは、強い打撃を与えると、筋骨、内臓、首などに多大な悪影響を与えかねません。
本来、武道とは、処世の道であり、人を生かす道である活人拳なのです。
よって、少林寺流空手道錬心舘では、約60年前より、人命尊重の見地から、組手における安全性と合理性を追求、安全かつ実践的な防具着用の試合制度を実施してきました。
そして、早くから科学的スポーツ化への道を明確にし、大衆武道としての組織を確立。空手界に新機軸を打ち立ててきたのです。
開祖 保勇
当支部では、錬心舘の指導理念を基盤に、武道としての空手を一人でも多くの人に伝えていこうと、日々、活動を行っています。
我々が日々の活動の中で追及しているもの。それは、真の強さと充実です。
それは、大会や試合で勝つことだけを求める勝利至上主義的な強さではありません。肉体的な強さだけを求める格闘技的なものでもありません。
社会の荒波でも立ち止まることなく、歩み続ける強さ。困難に負けず、立ち向かう強さ。そして、自分のことだけではなく、他人を思いやれる優しさ。
我々が求めている真の強さとは、そういった「心の強さ」なのです。
その心の強さを育むために、日々の稽古だけではなく、大会や演武会への参加、祭りなど地域行事への参加、後輩への指導など、さまざまな体験をしてもらっています。
また、我々は空手を、ただ自分を高めるためだけの手段には止めてほしくありません。
空手そのものの面白さを知ってもらい、純粋に、日々の稽古を楽しんでもらう。そうして、会員の皆様の生活が少しでも明るく充実したものになればと思い、日々、指導を行っています。
少林寺流空手道錬心舘の最大の特徴は、安全性と勝敗の明確性を優先するところから生まれた防具着用の組手試合制度とその組手技術の完成度の高さです。
錬心舘の組手技は、豪快で華麗な大技が主体。
『後ろ廻し蹴り』 『連続回し蹴り』 『逆風足刀蹴り』 『足刀くの字飛び』 『二段回転蹴り』 『羅旋手刀打ち』等々、これら、錬心舘のお家芸ともなった荒技の数々は、武道家として小柄だった開祖の独特の勝負哲学から生み出されたものです。
『小よく大を制し、短よく長に至る。それが空手道の神髄である。』
『空手の技は足技七分。公相君は手を使わずに敵を倒し、喜屋武朝徳先生は小脇にチャボを抱えたままで敵をあしらったという話がある。』
開祖は深い哲理を持って拳法の型や技をその淵源まで遡って研究し、独自の工夫を凝らしました。
動物の動きや天地自然の理に学び、風の流れや水の動きをヒントに編み出した技も少なくありません。
しかし一方で、開祖は、組手偏重を戒め、『空手は型に始まり型に終わる』を口癖とし、終生、型の重要性を説いて止まなかった。
『型を忘れた空手は単なる格闘技である。その生命は夏のセミよりはかない。』